(報告)

金順吉裁判提訴30周年記念集会

 -強制動員の実態を記録した日記帳から裁判は始まった-

 730日に開催しました「金順吉(キムスンギル)裁判提訴30周年記念集会―強制動員の実態を記録した日記帳から裁判は始まった―」のメインの講演を一般公開します。講師は被爆二世として長崎で活動する在外被爆者支援連絡会共同代表の平野伸人さんです。

 

 平野さんは1987年に核兵器廃絶の運動をともに闘おうと韓国の被爆者団体に呼びかけるために訪韓したときに「戦後ずっと強制連行の被害の補償はおろか日本の被曝者援護制度からも排除されてきた私たちがなぜ賛同しなければならないのか」と問い返されたことに衝撃を受け、以後在韓被爆者支援の運動を続けておられます。その在韓被爆者の調査で出会ったのが三菱長崎造船所に強制連行され被曝した金順吉さんでした。長崎と広島に強制連行された元徴用工被害者の人々は強制労働と被爆という二重の被害に戦後も苦しみ続けました。

 金順吉さんは連行された日々の出来事や自らの被爆体験を畳の下に隠した手帳に克明に記録していました。そして「この日記には事実しか書いていない。この手帳を使って強制連行と被爆の事実、三菱の戦争責任を明らかにしたい」と200ページに及ぶ手帳を平野さんに託しました。

 


 こうして1992年に三菱重工に未払い賃金の支払いと謝罪と補償を求める金順吉裁判が始まりました。裁判は疑いようのない日記の記録などをもとに被害事実は認定されましたが、長崎地裁は後の強制連行の裁判と同様「国家無答責」や「別会社」を理由に請求を棄却しました。また判決を病床で聞いた金順吉さんは失意のうちに亡くなってしまわれました。

 当時、平野さんらは裁判と並行して未払い賃金の供託名簿の公開や郵便貯金の返還、厚生年金脱退手当金の支給などを求めていましたが、厚生省(当時)の社会保険審査会は支給を認めましたが、外務省が脱退手当金の「請求権」も日韓請求権協定で消滅しているとして支給を留保しました。しかし長崎を訪れた菅直人厚生大臣(当時)に平野さんらが「直訴」して35円の脱退手当金を支給させました。

そのとき金順吉さんは「勝利」と書いた色紙をかかげ「わずか35円だが私にとっては35000万円の価値がある」と涙を流して喜ばれたそうです。

すべての請求権が日韓請求権協定で消滅したとする日本政府の主張を打ち破るまさに「アリの一穴」でした。後に続く私たちもこの「アリの一穴」を大きく広げていく取り組みをしていかなければならないと思います。

イベント当日の動画(2022.9.5)