2020年7月4日

「産業遺産情報センター」を見学して

強制動員問題解決と過去清算のための共同行動

事務局  矢野秀喜

1 はじめに

 

  6月30日、午後1時半から約2時間、「産業遺産情報センター」を見学した。同センターは3月31日に開館したが、コロナ禍の影響で休館が続いていた。「緊急事態宣言」解除に伴い、6月15日から一般公開-見学受入れが開始されると知り、見学しようと考えた。しかし、コロナウィルス感染を回避するため、完全予約制ということであった。そこで電話で予約をしたが、希望した日には見学は受け入れられず、結局6月30日に見学できることとなった。

 

  当日、私と知人の3名でセンターに出向くと、型どおりに検温、手指のアルコール消毒を促され、さらに受付用紙に氏名、住所等の記入も求められた。

 

  ただ、それからが大変であった。何が大変かと言うと、出迎えてくれたセンターのガイドが、「あなたが矢野さんですか」「昨夜、あなたのことをネットで見ました」と言ってきたのである。センター側は、6月30日にセンターを見学することになった矢野が、どのような人間かを知っており、そのために彼らなりに“事前準備”までしていたのである。出迎えてくれたガイドはセンターの主任ガイドを務める中村陽一氏であった。

 

さらに当日、センターは矢野の見学に合わせて、「特別の態勢」をとってきた。私たち3名の見学者のために、センターではセンター長の加藤康子氏、元島民(注:「島」とは軍艦島)のガイド2名が付いてくれた。それだけではなく、「記録するので」と言って、2名のスタッフが私たちの傍らでビデオ撮影し始めたのである。撮影するに当たって、私たちに承諾を求めることはなかった。その映像をどのように使用するのかの説明もなかった。

 

  こうして私たちは、センター長以下7~8名のスタッフにとり囲まれながら見学をすることになったのである。これで私は、落ち着かなくなり、ゆっくりと展示を見る余裕もなくなってしまった。 
 ただ、センター長の加藤氏、中村氏は、私たちのために展示内容や、軍艦島とそこの実態について熱心に説明をされ、「強制労働はなかった」、「みんな仲良く生活していた」等と解説された。その意味で、私たちは「歓迎」を受けたと言えなくもない。

 

  以下、私が展示を見、加藤氏らの説明・解説を聞いて、知ったこと、思ったことを簡単に報告する。

 

 

 

 (注1)産業遺産情報センターでは現在、1030~、1330~、1530~と3回に区切って、見学者を受け入れている。各回、1グループ最大5名まで受け入れるとのこと。つまりセンターは1日につき最大で15名しか見学を受け付けていない。

 

 (注2)しかも、8月末まで予約受付がいっぱいとなったため、現在は見学予約の受付じたいも停止している。

 

 

 

2 産業遺産情報センターの展示

 

  産業遺産情報センターは、総務省(統計局)の施設の一部を改修して、設置された。センター内は、「ゾーン1:導入展示」(明治日本の産業革命遺産への誘い)、「ゾーン2:メイン展示」(産業国家への軌跡)、「ゾーン3:資料室」の展示構成になっている。

 

 

 

「ゾーン1」について-

 

  ここでは、先ず、19991月から始まり、2015年7月5日にユネスコ世界遺産委員会で「明治日本の産業革命遺産」(製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業)がユネスコ世界遺産に登録されるまでの経緯が年表で示されている。2015年7月の登録を記載した箇所には、当日、登録に際しての佐藤地ユネスコ大使の発言(「日本は、1940年代にいくつかのサイトにおいて、その意思に反して連れて来られ、厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者等がいたこと、また、第二次世界大戦中に日本政府としても徴用政策を実施していたことについて理解できるような措置を講じる」、「インフォメーションセンターの設置など、犠牲者を記憶にとどめるために適切な措置を説明戦略に盛り込む」)も、全文が掲載されている。

 

この「ゾーン1」では、マルチディスプレーで、明治日本の産業革命遺産の各構成資産や日本各地の産業遺産について写真や動画で解説している。この日は、「軍艦島」の写真、動画を見せてもらった。その際に、中村氏は「軍艦島では、波の荒い方に住宅を建て、波の静かな側に炭鉱、坑口をおいた」と説明された。これを聞いて、私はなるほどと思うと同時に、軍艦島という島の厳しさを思った。

 

 

 

「ゾーン2」について-

 

  ここはメイン展示のゾーン。「産業国家への軌跡」をたどるべく、①揺籃の時代、②造船、③製鉄・鉄鋼、④石炭産業、⑤産業国家へ、の5つのコーナーで構成されている。加藤氏はご自分のことを「工場オタク」「産業遺産オタク」と言っておられるほどであるから、このコーナーでは熱を込めて各コーナーについて説明をされた。私のように各産業史について殆ど何も知らない人間にとって、勉強になることは多かった。

 

  ただ、「明治日本の産業革命遺産」は、シリアル・ノミネーションという方式で、8県21市にまたがる23資産(3産業分野)が「一括」してユネスコ世界遺産登録されたのであるが、23資産がどう産業史、技術史的に結びついているのかについて、私には理解できなかった(加藤氏から説明もされなかったと思う)。

 

たとえば、吉田松陰がおこした松下村塾も「産業遺産」として登録されたのであるが、この「松下村塾」は、明治維新と、明治政府で「殖産興業」「富国強兵」を推進した政治家などを送り出した私塾ではあるが、それが何故「産業遺産」と位置づけられるのかについて、私の疑問は解けなかった。

 

 

 

「ゾーン3」について-

 

  ここが、ある意味で、この産業遺産情報センターをめぐり日韓間で激しい議論をまき起こしている焦点ともいうべきゾーンである。ここは、有り体に言えば、「軍艦島」をめぐり韓国側から言われている「地獄島」-強制労働、朝鮮人への過酷な処遇、差別、等を、徹底して否定するために設置されたゾーンと位置づけられている、と言っても過言ではない。それは展示内容、元島民の中村氏(加藤氏も)の説明などから伺える。

 

  このゾーンに入ると、先ず、壁面(1面)いっぱいを使って多くの顔写真(これは全て元島民)パネルが展示されているのが目に入ってくる。加藤氏、ガイドによれば、この人たちは全て「顔を出し、名前も出し、隠れもしないで証言をしてくれた人びと」である。何を証言されたかといえば、「強制労働なんてなかったよ」「みんな和気あいあいと暮らしていた」などの証言をされた、ということであるようだ。但し、その方々の顔写真パネルには名前も生年月日なども付されておらず、証言の一部が紹介されているということもなかった。

 

加藤氏によれば、この「ゾーン3」のために、137名の方から証言を得、そのうちの70名が軍艦島元島民であったとのことである。顔写真パネルが掲げられている方々は、その70名のうちに含まれている方なのである。

 

  そして、現時点では、この70名のうち4名の方の証言だけがパネルで展示されている(映像証言も見ることができる)。鈴木文雄氏、松本栄氏、井上秀士氏、〇〇〇〇氏(お名前がメモできなかった)。ただ、この日は、加藤氏をはじめセンターのスタッフに囲まれての見学で、時間も短かったため、残念ながら、パネルをざっと見ることができただけで(しかし、メモも取れず殆ど記録はできなかった)、証言映像については視ることはできなかった。

 

 

 

 (注370名もの方から証言を得ながら、何故4名分の証言パネルしか展示されないのか、時間的に間に合わなかったのか、他に理由があるのか、それについての説明はなかった。3月31日に開設して以降、2か月以上も休館していたのであるから、時間的余裕はたっぷりあったと思われるが。

 

 

 

私の記憶に残っている限りでは、松本栄さん(1928年生)は、パネルでは「端島において、どこに朝鮮人たちと日本の国内の人たちとの差異があったというのか。世界遺産のために、ここは涙を呑んで何とか金でうまく片付けようじゃないかとは、これをやられてしまうとですね…。日本は何と腰の弱い外交をやるもんかな、と」などと証言されていた。

 

ただ、松本さんは戦時中に坑内作業に就いておられたとのことではあるが、具体的にどのような仕事をされ、朝鮮人労働者とどのような接触をされていたかはパネルでは伺い知ることはできなかった(私が見た限り)。

 

 

 

また、メディアはではかなり大きく報道されている在日2世の鈴木文雄さん(1933年生)は、「周囲の人とか、いろいろな方から可愛がられたことはあるけど、指差されて、『あれは朝鮮人ぞ』とか、そういうことは、まったく聞いたことがないですね」、また、「おふくろから、『おとうさんは伍長かなにかやけんが、少し給料はよかとよ』ということで。そいけん、ちょっと誇りになって、給料をもらいにいっていた記憶があるんですよね」などの証言をされている。

 

ただ、鈴木さんが「可愛がられた」のは彼が幼稚園の時代のことでありこれをもって「朝鮮人へのいじめはなかった、差別はなかった」ことを証明できるかは疑問であろう。鈴木さんは、1942年、小学校2年か3年の時には端島を出ているのだ。

 

そして、鈴木さんのお父さんが「伍長」にまでなられたのは、お父さんが既に1920年代末ないし30年代初めには端島に入り、炭鉱夫としての経験を積まれていたからであろう。1939年以降に、労務動員計画で動員され、端島に入った朝鮮人労務者とは異なる経歴の方であったのは間違いない。

 

 

 

  また、このゾーンの“売り物”の一つは、台湾人徴用工の鄭新発さん(1924年生)の給料表、給料袋等の現物の展示である。鄭さんは1943年、19歳のときに徴用令で三菱重工長崎造船所に入った方である。この展示を指して、ガイドは「(昭和)20年の4月に精勤手当も出ている。ただ働きなんてなかった、ということです」と説明した。

 

確かに、台湾人徴用工の鄭さんが、ただ働きを強いられることはなかった、それは事実であろう。しかし、この鄭さんの長崎造船所での給料袋等の展示をもって、端島に労務動員された朝鮮人労働者もきちんと日本人と同等の給料をもらっていた、ということを証明することにはならない。

 

  

 

このゾーンでは、国家総動員法、国民徴用令など労務動員に関わる法令などがデータベース化され、検索して読むことができる。その意味では、「第二次世界大戦中に日本政府としても徴用政策を実施していたことについて理解できるような措置を講じる」との佐藤ユネスコ大使の「約束」は履行されているとも言える。

 

しかし、「その意思に反して連れて来られ」た(=連れてきた)ことを自ら明らかにするような資料をもデータベース化しているか、については確認できなかった。加藤氏や中村氏の説明などから類推するに、恐らくは、そのような行政文書などはパネル化されていないのは勿論のこと、データベース化してもいないのではないだろうか。

 

 

 

3 産業遺産情報センターを見学しての感想など

 

  短い時間でのセンター見学ではあったが、展示などを見ての感想と総括を述べる。ユネスコでの佐藤地大使が発言したことが、このセンターの展示内容であると政府が強弁するならば、国際的な信頼を裏切るものだと、まず指摘しておく。以下、その理由を列挙する。

 

 

 

  第1は、センターがほぼ軍艦島だけを取り上げて、「強制労働はなかった」、「朝鮮人への差別はなかった」、「みな和気あいあいと暮らしていた」等と強調していることの問題である。明治産業革命遺産23のサイトで、「その意思に反して連れて来られ、厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者等がいた」サイトは軍艦島(端島)だけではない。三井三池炭鉱、三菱長崎造船所、八幡製鉄所などにも朝鮮人は強制動員され、働かされていた。それらのサイトでは、朝鮮人の動員、労働実態、生活の状況はいかなるものであったのか、それらは全く説明されておらず、等閑視されている。

 

  第2に、上記のことに関わるが、強制動員され、働かされた労働者は朝鮮人だけではなく、中国人、連合国捕虜もいた。そのことについて全く説明していない。これではフルヒストリー、各サイトの歴史の「全貌」を説明したことにはならない。

 

  第3に、軍艦島の元島民から多くの証言、資料を採取・展示したことは評価しうるが、肝心の朝鮮人(韓国人)からの証言がまったく採取されていない。「犠牲者を記憶にとどめる」というのであれば、韓国・朝鮮人被害者の証言も採取し、展示すべきであろう。ガイドは堂々と、「(韓国は)いい加減なんです」「ウソを言うんだから」などと見学者に言っている。しかし、日本人元島民が「強制労働はなかった」「差別などなかった」と証言したからといって、強制労働、差別はなかったことにはならない。それはセクハラと同じである。セクハラをした側、或いはそれを傍観した側が、いくら「セクハラはしていない」「相手も受け容れていた」などと言っても、された側が「セクハラだった」「苦痛を受けた」と事実をつまびらかにする証言をしたら、セクハラはあった、のである。

 

被害当事者側の証言は、先行調査、研究の中でいくつも採取されている。それを敢えて採用せず、センター見学者に示さないのは何故なのか、それについて明確な説明が求められる。

 

加藤氏は、「月刊Hanadaセレクション」-特集「“徴用工”と従軍慰安婦」(20191月)に「軍艦島元島民が語る“徴用工”の真実」を執筆されている。その中で、加藤氏は、「しかし、半世紀以上も前のことです。韓国側、そして元島民の証言にも曖昧な部分はあると思います。だからこそ、互いに対比してみればよいと思います。歴史は複眼的に見る必要があり、すべての証言を排除せず、両論を併記して議論することが必要です」と書いている。その通りである。では、何故そうしないのか?加藤氏には説明する責任がある。

 

第4に、各種法令、規則などについて、先述したように国家総動員法、国民徴用令など基本的な資料はデータベース化されているようであるが、強制動員であったこと、それを実際にしたことを明らかにする行政文書、公文書など(内務省管理局嘱託・小暮泰用の「復命書」、朝鮮総督府・田中武雄政務総監の「訓示」等)はデータに入れられているのだろうか(当日、私は未確認)。しかし、それらの文書は確かに存在する。もしデータベース化していないのであれば、それらも合わせてデータベース化することが必要であろう。

 

 

 

最後に、三菱重工長崎造船所での徴用工へ適切に給与が払われていたのか、ということについて、日本の裁判所の判決があるので、紹介したい。私のような市民運動家が調べても分かることを、政府のお墨付きがある団体が確認していないのは、恣意的とのそしりは免れまい。

 

 

 

194412月下旬に国民徴用令により徴用され、451月から三菱重工長崎造船所で徴用工として働き、同年89日に原爆被爆した後に帰国した韓国人元徴用工・金順吉さんのケースだ。

 

金さんは1992731日、国、三菱重工を相手に損害賠償請求訴訟(平成4年(ワ)第315号 損害賠償等請求事件)を起こした。裁判の中で明らかにされ、裁判所も認定した賃金支払い状況は以下のとおりであった。

 

1、2月分の給料をまとめて支給されたが、その内訳は、

 

〔支給〕賃金8727銭、加給金799銭、精勤手当435銭、家族手当15円、皆勤賞与1円71銭、支給額合計11632銭。

 

〔控除〕健康保険料15銭、退職積立金385銭、立替金1円、下宿寮費880銭、国体会費34銭、「国民貯蓄」7128銭、控除額合計8632銭。

 

〔差引支給額〕30

 

  これが賃金支給の実態であった。この訴訟の判決では、3月~6月分給料の支給実態については不明としつつ、7月分については不支給であった、と明確に認定した(1997122日判決文)。

 

  また、この判決では、「寮長以下の監視体制の下で半ば軟禁に近い状態にして労働に従事させていたものであるところ、かかる行為は、国民徴用令に基づく徴用でも許容されない違法なものであった」「旧三菱重工株式会社には不法行為責任あり」「同社は不法行為に基づく損害賠償責任を負う」とも認定した。但し、戦前の三菱重工と戦後の三菱重工は「別会社」であるとして、金順吉さんの請求は棄却した。

長崎造船所でも、朝鮮人徴用工への給与の支払いには問題があり、軟禁に近い労働の強制があったということである。